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宮本武蔵 五輪書

今回の古き日本を愛でる会は「宮本武蔵」についてです。

「宮本武蔵って佐々木、小次郎と巌流島で決闘した人だよね」「宮本武蔵って、剣の達人だよね」と、それぐらい知ってれば良いのかも知れません。

が、今回は武蔵の著書の「五輪書」(ごりんのしょ)について書かせて頂ます。
なにやら難しそうで敬遠されそうですが、できるだけ簡単にわかりやすい現代語訳をされている方が居られるので、そこから引用しながら書いていきます。
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これは漫画「バガボンド」の"たけぞう"ですね。
この世界観が好きな人なら興味をもってもらえると信じております。

まぁ、超有名人の「宮本武蔵」についてウンチクが増えるという想いで見てもらえればいいです。

まず、「五輪書」とは「地の巻」「水の巻」(水野真紀ではない)「火の巻」「風の巻」「空の巻」からなる兵法(要は戦い方)について書いた本です。

自分の実生活には関係なさそうですが、物事を極めた人の言葉は深く、とても興味を引かれると思います。

序文には、「ひとつの物事を極めれば、それはすべての事に通じる」とあります。
仕事に励む人や、スポーツに励む人にも役立つし、普段の生活においても何かヒントがあるかと思います。

序文から端折って書きますね

・13歳の頃に初めて勝負をし、勝ちました。16歳の頃有名な人と戦い、勝ちました。21歳の頃、京都の吉岡などの強者にも勝ちました。
その後29歳まで60回もの勝負(命をかけた真剣勝負ですよ)をし、いずれも勝ちました。

しかし、30歳を越えた頃今まで勝てたのは自分の実力では無いかも知れないと考え直し、更なる稽古に励みました。

私がようやく武芸の道を身につけたのは、50歳になってからでした。

とある。


・武士はいさぎよく死ぬものだと考えている人が、けっこう多いんじゃないでしょうか?

でも、いさぎよく死ぬのは、武士に限らないですよね。
出家した人も、女性も、農民も、だれだって、いざとなれば義理を知り、恥を知り、いさぎよく死ぬことができるでしょう。(当時の話ね)

じゃあ、武士って何なのか。

武士が武士であるために大切なのは、勝つことです。いさぎよく死ぬことではありません。

勝つのが武士の仕事です。

という感じで、武士とはどうあるべきかという事が序文には触れてあります。


「地の巻」に入ります。
武蔵の流派である二刀流(二天一流)について書いている

・いつも2本の刀を差してんだから2本とも使おうというのが、我が流派です。

二刀流だからといって、必ずしも2本を同時に持って戦う訳ではありません。

二刀流の真意は、2本を同時に持つ事ではありません。1本の刀を片手で扱えるようにする事なのです。

右手に1本、左手に1本をもって練習をすると、片手で刀をあつかえるようになります。そのための二刀流なんです。

よく刀は両手で1本を持つべきだと言われます。でも、そんなことはありません。刀は片手で持つものです。

その方が実践では有利だと言う事を書いてある。

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ここで一息、これが本物の宮本武蔵です。

あれ?なんか思ったのと違う。とお思いかも知れませんが、数学者や研究者、職人など物事を極める人の身なりは大体こんな感じです。

真剣を交えて戦うという事は、ほんの一瞬の判断ミスや体の動かし方をミスれば、自分が死ぬ事になる。
そんな究極の状態で勝ち続けた男の言葉には、とんでもない凄みがあると思うのは私だけでしょうか?


そして「水の巻」の始めにはこうある


それから、この本の読み方ですが…

「読む」とは思わないでください。

「習う」とは思わないでください。

「真似する」とは思わないでください。


では、どうすればいいのか?


どうか「気づく」つもりで、この本を手にとってください。

情報をただ受け取るのではなく当事者意識をしっかりもって挑んで下さい。とのこと。

なるほど、なるほどである。


ちなみに原文に近い感じだと↓
~惣而、兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とする事、肝要也。
能々吟味すべし。~

となるが、難しいので砕けた感じで書くとこうなる↓
戦う時の姿勢について。普段の時に本番のようにし、本番の時に普段のようにする事が肝心です。普段からよ~く考えておきましょう

スポーツなどで通じるなぁ


もうひとつ「水の巻」から。
刀の構え方について教えている


刀の構えには、
上・中・下・左・右の5つがあります。


刀を構えるとき…
構えるつもりで構えないで下さい。
斬るつもりで、構えて下さい。


構えるために構えるのではありません。
斬るために構えるのです。


そもそも何の為なのかを
いつも忘れないようにしたいですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

"形"という物は"目的"があっての"形"という事ですね。これも色んな事に通じますね。

どうだったでしょうか?ほんの一部だけ紹介しましたが、何か「気付く」事ができましたか?

武蔵は自らの宗教観をこんな言葉で表しております。
「我、神仏を尊びて、神仏を頼らず。」

私にとって五輪書はバイブルのような物です。

実は、私のブログに書いてある事(バイクの話ね)やシークレットにしている事をまとめた書物「二輪書」をいつか書きます。
いや、ただの妄想です。

このブログ自体(日記とお知らせのカテゴリーを除く)は、まぁ図鑑の様になればと思っております。
カテゴリーを細かく分けて、すぐに引っ張り出せる様にと実は考えて作っておるのです。


今回は五輪書について色々書きましたが、下のリンクからの引用がほとんどです。
興味をもって貰えたなら一度見て下さい。

宮本武蔵 『五輪書』  ゆる~い現代語訳
=

~本気で変えてやると言う事~ 白洲次郎

5月3日は憲法記念日でしたね。

最近憲法改正だとか何かと耳にするこの"憲法"。そもそも憲法ってどういう事?誰が守るのが憲法なの?って話をすると難しいのでやりませんのでご安心を。

古き日本を愛でて、明日への活力にするのが目的でもあるので目的違いでもありますしね。


ざっと始めます。1945年8月15日、日本は戦争に負けアメリカ(GHQ)による占領が始まった。

ここに、占領下における日本で(GHQ押しつけの)憲法を作る時に日本が日本であるために必死で抵抗し、戦後の経済復興に大きく関わった男の話を載せます。

私のカッコイイ男ベスト5に堂々のランクインを果たした人物なので、知らない人は是非ともご覧頂きたいです。


学生時代はイギリスはケンブリッジ大学に留学し、超高級車ベントレーを乗り回したりし、ここで著名人らと交流を持つようになる。

(この時点で普通の人が夢見る贅沢をやり尽くしたのが、後となっては変な執着が生まれないで良かったのだろうか?)


時には田舎で農夫になっていたり

※これは、彼がイギリス留学時代に出会った「カントリージェントルマン」という生き方から来るものなのですが、都会(政界)の中心から外れた所(田舎)からの方がかえって物事が良く見えるとのこと。
であったり、政治の世界がどーも肌に合わなかったんじゃないかと思う。


そして、日本が占領からの独立の宣言する"サンフランシスコ講和会議"でも活躍したり、通産省(現在の経済産業省)を設立したりと戦後の日本のターニングポイントで活躍し、何より「アメリカの言いなりになるんじゃねぇ」と言わんばかりに、戦後の日本が独立する為に、より良くなるように強気で立ち向かって行った(下手したら殺されていてもおかしくないと思う)その生き様、というか美学というか、説明するの大変なので動画を見てね(途中からだけど)

動画2-4 国務大臣の松本蒸治らが憲法の案を出すがGHQに「そんなんアカン、俺らが1週間の突貫で作った憲法に従え」と言われ、結果、松本はサジを投げるが(←本来、日本国憲法を作らないといけない立場なのに・・・)白洲が立ち向かっていく様。

動画3-4 戦後はアメリカによる経済政策が取られていたのを、日本が自立した経済に持って行く様。
自分に向けられた刺客ですら味方に付けたり、同じアメリカの参謀に根を回し、結果GHQの力を弱ませたりと、うならされる。

動画4-4 通商産業省を設立し、戦後経済を劇的に復興しそして・・・・・
ひっさしぶりに見たのですが私、恥ずかしながら目から汗が出てしまいました


ps.バブル時代に次の白洲次郎がいたら、憲法改訂してアメリカから真の独立が出来ていたかも知れないなぁ。
憲法改訂はするべきだと思うが、安倍政権のやろうとしていることは結局アメリカの都合の良い様になるだけだと思うのでどーなんだかと言う個人的見解であります。


ちなみに日本で初めてジーンズ(リーバイス501XX)を履いた人としても有名

精神(スピリッツ)は受け継がれていく

えーっと、まず初めに私は右翼でも右寄りでもございません。ニュートラルな人間だと思っております。

私、先日のスパイゾルゲの話の中にも出てきた通り、開戦前の日本には「南進論」「北進論」とあったりした様に東南アジアに日本が進軍したのは100%「大東亜共栄圏」の為にしたとも考えておりません。


今日の古き日本を愛でる会は「神風特攻隊」についてではなく、いや、関係あるっちゃーありまくりですが、その精神について思うことを書きます。

まず初めに、特攻についてマイナスなイメージしか無い人に説明します。(これが無いと話が進まない)

大雑把に説明すると、(今じゃ考えられないかも知れないけど)日本とタイを除く東南アジアのすべての国が白人の植民地として不当な差別を受けていたとしている。
1919年に国連で「人種差別撤廃条項」を提案するが賛成が過半数を得たのに"全員一致ではない"とされ認められなかった。
        ↓  
そして国連常任理事国脱退
        ↓
1941年末、なんじゃかんじゃで開戦(←今回の主題ではないので割愛)
        ↓
1942年6月ミッドウェー海戦までは日本軍がどんどん勝ちまくっていたが、それを期にジリジリ負け越して行く。
        ↓
1944年10月、大西瀧治郎 中将の元「特別攻撃隊」が編成される
       
意思としては「このままでは半年で燃料などの物資が尽きる、どんどん弱体化して完全な敗北をするより、このフィリッピンを最後の戦場とし日本の底力と気迫を見せてから講和(戦争を終わらす)に持ち込めば、コテンパンにやられた後よりもいい条件で終わらせる事が出来る。そしてこの歴史的事実が戦後の日本にも精神が受け継がれるであろう」

という(ザックリし過ぎな感じの)流れです。

※作戦当初と、後半では意味合いが大きく異なったり、特攻作戦が一人歩きしフィリピンでは終わらなかったりしたりで、戦後様々な意見が言われる事となった。

現代の道徳ではおよそ考えにくいかも知れないが、祖国を守る=愛する母や妻、子供を守る 愛する人が、白人の奴隷になり、美しい日本文化が全て奪われるかも知れないと当時の人達は考えていたのです。

本土への無差別爆撃(空襲)も始まり「死ぬ気で家族をを守る!」「これ以上本土への攻撃をさせるか!」と様々な思いを持って(家族の顔を頭に思い描き)突っ込んで行ったのを想像して見て下さい。

今は戦争がなぜ起き、世界でなぜ戦争が無くならないのかが大体解ったので、私はこの様な作戦(というか戦争自体)に参加する事はないが、二十歳ぐらいの私が当時に居たなら「(もう既に不利になっている)陸戦で敵の弾に当たるかどうかビビリながら死ぬより、敵の空母にぶち当たって死ぬ方が本望」と思っただろう。

まだ理解出来ない人にわかり易い様に今の事で言えば、原発で大惨事が起き、人が誰も近づけない。でも誰かが行かないともっと悲惨な事になる。そんな中、志願したのが特攻隊の人達だと考えれば大体想像がつくかと思います。      


んで、ここからが本題ですが、前置きが長くなったので短くまとめます。

戦時中の日本は皆「お国のため!」と一致団結していた。国の為に頑張る=愛する家族が幸せになる。という図式があったように思う。

それが戦後、特攻精神を受け継いだ社長達が、「戦争で負けたけど技術でアメリカに(世界に)勝つ!と意気込み、社員も「会社(社長)のため!」と一丸となり日本経済を底から世界のトップに押し上げたと私は考えております。

それがバブル経済という幻想の中、メディアによって「会社の為なんて馬鹿らしいぜ~、もっと自由になろうぜ~」という空気が作られ、いつの間にか「自分のため!」に変わって行った。
(やたらと過労死とかの報道がされたりとか)

「自分の人生なんだから自分のために生きるってステキ☆」その意見も理解は出来ます。しかし、その自分の為、自分の為ってのが世の中を悪くしてる一端を担っているのも事実かと思います。

今一度、「ノチノ ニホンニ エイコウアレ」と特攻で死んでいった人達が必死で守ろうとした物を考え直す事は、この低迷している日本では大事な事なのかも知れませんね。


最期に、パイロット志願だったがパラシュート事故以来、来航空機関士となり、戦争末期には特攻隊の先導を行い、弟や多くの仲間の死を見送ったヨシムラの吉村秀雄の動画を貼っておきます。(マジでこれは必見!人生において有意義な42:58秒)

紛れもなく特攻精神を受け継いだ一人だと思っております。そしてその吉村の精神は多くの技術者へと受け継がれて行っている。


ps,特攻作戦を発案した大西中将は戦争が終わった翌日、自身への責任を取る為自らの腹を切り自決した。
(通常、切腹したら介錯、つまり首をはねてもらうのだが、それをせずに長時間(数時間とも半日とも言われる)痛みに耐え続け絶命したという。)

ハラキリも現代の道徳では非道徳的行為であるけど、大きな過ちを犯しても記者会見で頭を下げるだけで許されるよりは、持ち合わせておくべき精神なのかも知れないですね。

「なんかあったらワシが責任取るから、思いっきりやってこい!」っていう昭和の大社長らが日本を前進させたんじゃないかとも思う今日この頃

MADE IN JAPAN ~本物の職人~

先日、深夜にチラッとテレビを見ていたのだが、内容が「東大阪の町工場が、中国に技術を売って不景気を乗り切る」という物でした。

その場しのぎにはなるけど、次の世代、その次の世代の事を考えれば、政府単位で考え直さないと、技術大国「日本」の未来は暗いんじゃないかと思うのです。


さて、「今回の古き日本を愛でる会」は昔の偉人では無く、御年79歳の現役の職人さんを紹介いたします。
私が最も尊敬する職人と言ってもいい方なので、最後まで読んでいただければ幸いです。


ロンドンオリンピックも近づいてまいりましたが、皆さんの注目している選手は誰でしょうか?

私は何と言ってもアトランタ、シドニー、アテネの三大会連続で、金、銀、銅メダルを独占したあの、砲丸の"球"です・・・・・・・・・・・・・・?

前フリからして大体お解りでしょうが、その砲丸を作っている方が、埼玉県の辻谷工業の辻谷政久という職人さんです。

世界の他のメーカーの砲丸は、何千万か億するコンピューター制御の機械で作っているのですが、辻谷さんは40年以上使っている汎用旋盤で手作業で砲丸を作っている。

よりよく飛ばす事が出来る砲丸の条件は、重心をより球の中心に持っていくかという事だそうです。材料が不純物の多い鋳物なので、まん丸に削っても重心はバラつくのです。

他社は辻谷さんの砲丸に対抗してマシニングで削り、バランスを見る機械でバランスを見て、穴を開けて鉛を注入してバランスを取るそうです。(反則くさいよなぁ・・・・)

でも、辻谷さんは、削れる音や、表面の色で判断し、何よりも手に伝わって来る微妙な振動で重心の位置が解かると言うから驚きです。

まん丸に削るだけでも大変ですが、7260gの鉄の球をたった10gの誤差で手作業で削る。
しかも鋳造の条件によって重さが変わるので、同じ大きさにしても重さはかなり変わるらしい。それをさらに重心が球のど真ん中に来る様に手の感覚で削る。
まぁ、考えられないくらいスゴイのですが、解って頂けるでしょうか?


私が辻谷さんを知ったのは、3~4年前にニュースのとあるコーナーで紹介されていたのを見て驚愕と感動を覚えたのが最初です。

辻谷さんが初めて砲丸をオリンピックに提供したのは1988年のソウルオリンピックでした。それまで砲丸なんか作った事が無いとこから始め、何年もかかってやっとの思いで公式採用されるに至ったのであった。

しかし、残念ながら新参者の辻谷さんの砲丸は使われる事はなかったという。

その悔しさをバネに、次の1992年のバルセロナでは、選手の指紋などをデータで集めて独自の技術として砲丸の表面に微妙な「筋入れ」を施した。

すると徐々に評判が上がり選手たちが使ってくれる様になったという。残念ながらこの年もメダルは採れなかった。


そして、また4年後の1996年アトランタオリンピックで、ついに辻谷さんの砲丸は金メダルを獲得したのであった。同時に銀メダル、銅メダルを取った選手も皆、辻谷さんの砲丸を選んだのであった。
数多くある砲丸の中から、なんと決勝に出れた12人全ての選手が辻谷さんの砲丸だったというから驚きだ。


<アトランタ、シドニーで使われた筋入りの砲丸 ※競技用には打刻は入って無い>

続く、2000年のシドニーでも金、銀、銅メダル独占の快挙。もはや辻谷さんの砲丸は圧倒的な品質を誇っていた。

しかし、ある米国の企業から「筋入れは反則だ」とクレームが入り、次のアテネでは表面をツルツルに加工しなければいけなくなってしまう。

しかし、辻谷さんの砲丸の真骨頂は「重心がど真ん中にある世界で唯一の砲丸」と称されるだけあって、そんな事はもろともせず、またしても2004年のアテネオリンピックで金、銀、銅メダル独占するのであった。

このまま何連続でメダル独占して行くのかと、注目もされていた。

そして2008年の北京オリンピック。

辻谷さんの砲丸はそこには無かった。
砲丸の提供を断ったのであった。

理由は、日本の工業技術を教えてくれと盗むだけ盗み、(出来は2流3流だが)日本の工業を衰退させる国が、サッカーアジアカップでの日本人選手に対する罵声を浴びせ、反日デモを行っている。"そんな国には私の大切な砲丸を預ける事は出来ない"と言ったそうだ。

「MADE IN JAPAN のプライドをなめんなよ」 といった感じですね。

ちなみに、北京では新記録は出なかったそうだ。(当たり前か・・)


そしてこんな話もある。
ある米国のスポーツメーカーNから、米国に来て技術指導者になって欲しいとオファーが来た。

給与は週休2万ドル(当時で約200万)の3年契約。つまり年間1億超の給料を出すとの話であった。

しかし、辻谷さんはコレを断った。(そしてその次のオリンピックからあの「筋入れ」が禁止になったんですね・・・)

辻谷さんはこの砲丸を完成させるのに鋳造屋で勉強させてもらい技術を教えて貰ったり、「材料いくらでも使っていいぞ」と言われ何度も研究したり、その他にも色んな人のおかげで自分の技術がある。
それを自分だけが良い思いをするなんてとても出来ない。とおっしゃっていた。

そして、日本の技術流出が日本の工業をダメにしているのを良く解っていたんじゃないかと思う。

サムソンに何億も出されてホイホイ着いていく、元「日立」の吉川良三とかには一生解らんでしょうが・・・


「技術大国、日本」という物が、古き日本の物語にならない様に、と願うばかりです。

最初に紹介したとおり、辻谷さんは御年79歳。本人はこのロンドンが最後のオリンピックだという。

次も頑張って欲しいが、今は只ロンドンでのメダル独占及び、新記録が出る事に注目しようではありませんか。

※追記

今回書きたい事が沢山あったのですが、なるべく読みやすい様にまとめました。

私が書かなかった事が他にも書かれている記事を下に貼っておきます。興味のある方はどうぞ。

http://jqrmag.com/?p=49

国の歌

はい、また始まりました。古き日本を愛でる会
もうちょっと自分の住んでる国を好きになろうよ、ってな想いを込め(これからの厳しい時代に大事な事だと思う)
聖徳太子からはじまり、第二回は田中久重。そして今回は現代に生きる(古き良き)職人編といこうかと思っていたのですが、変更です。

卒業、入学シーズン真っただ中だし、今年はオリンピックもある事だし、このテーマ行ってみよう。

                         国歌

えっ、重い?

「じゃあ、"君が代"の歌詞の意味を詳しく言える人~手を挙げて~」
と言って何人が手を挙げるでしょうか?

私自信、小学生か中学生の時にカナリ偏った意味を教えられたので、今回は自分の住んでる国の歌についてお話します。

卒業式や表彰式で歌わなかっただのと論議されていますが、正しい知識をもってすれば好きになれると信じております。

かくいう私も昔は「君が代って地味やな~」とか「アメリカ国歌をゴズぺル歌手が歌ってんのカッコエエなぁ~」とか思ってました。


<写真は"さざれ石"です>

始めに、"君が代"の源流になっているのは今から千年以上前の平安時代"古今和歌集"に載せられてた和歌です。


「君が代は 千代に八千代 さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで」

という歌詞ですが、この和歌が詠まれた平安時代では、まず「君」は王とかですね。(学校では「天皇崇拝の歌だから君は天皇だ」と教えられましたが、まずこの歌は、<題しらず><読み人知らず>ともなっている事や、その後に続く"歌"に出て来る地名などから九州王朝で作られたと言う説が有力だと思っています。)

「千代に八千代に」簡単に言うと"永遠に"って事です。

「さざれ石」は上の写真の様に、小さな石が沢山集まってやがて大きな石になった物。それが「巌(いわお)となりて」大きな頑丈な岩になるまで

「苔のむすまで」さらに苔がびっしり生えるまで


江戸時代に入ると、神社や寺の祝い事の時に歌われ、その後も結婚式などで歌われるようになった。(※それまでは和歌として詠まれ、明治時代に曲が付いて現代の君が代になった。)

だから、歌詞をそれにわかりやすく当てはめると。

「あなたの(尊敬する人や祝われる人)すばらしい人生が 末永く続きますように ずっと、ずっと願います」
といった風になる


だから卒業式なら、ずっと自分を見守り、叱り、育ててくれた先生を想い、歌えばいい。

表彰式なら、指導してくれた監督やコーチ、支え合ったチームメイトを想い、歌えばいい。

つまり尊敬と感謝の歌なんですね。


平安時代なら平安時代の王朝、江戸時代なら江戸時代のならわしに合わせて、そして現代なら現代の解釈で、尊敬と感謝を表せばいい。と私は思っております。

最後まで読んでくれた方に、もし子供や孫が居られるなら伝えていってもらえたらなぁ。と思います。


ps、 それでも「軍国主義の歌だ!」とかなんだとか言う人が居るなら(だいぶGHQの愚民化政策にヤラれてると思いますが・・・)他国の国歌を参考に下に載せておきます

<アメリカ国歌>
見よや 朝の薄明かりに
たそがれゆく 美空に浮かぶ
われらが旗 星条旗を

弾丸降る 戦いの庭に
頭上を高く ひるがえる
堂々たる星条旗よ
                       
おお われらが旗のあるところ
自由と勇気共にあり

「う~ん(南北)戦争を思わす歌詞ですね~」

<中華人民共和国 国歌>
立て、奴隷となるな
血と肉もて築かむ
よき国 われらが危機せまりぬ
今こそ 戦うときは来ぬ
立て立て 心合わせ敵にあたらん
進め進め 進めよや

「完全にバイオレンスです、卒業式では歌えまへんなぁ」

<フランス国歌>
祖国の子どもたちよ、栄光の日がやってきた!
我らに向かって、暴君の血塗られた軍旗がかかげられた
血塗られた軍旗がかかげられた
どう猛な兵士たちが、野原でうごめいているのが聞こえるか?
子どもや妻たちの首をかっ切るために、
やつらは我々の元へやってきているのだ!
武器をとれ、市民たちよ
自らの軍を組織せよ
前進しよう、前進しよう!
我らの田畑に、汚れた血を飲み込ませてやるために!

「おしゃれなイメージのフランスだが、オリンピックでも微妙や・・・・・・」

古き日本を愛でる会~昔の技術者編~田中久重


大滝秀次ではございません。

超一部の人に好評をいただいている、「古き日本を愛でる会」の第二弾でございます。

東洋のエジソンとも言われた、田中久重(1799~1881)江戸時代末期の発明家であります。

このお方は、現代の日本の技術の基礎となる様々な物を作られたのですが、中でも最高の情熱をそそいだと思われる万年時計について紹介しようと思います。

まずは画像↓

これが万年時計でございます。

後ほど動画を貼りますが、ホントに震えあがる程に凄い時計なのです。

出来れば(ちょっと長い)動画を全部見ていただいて、私は何も言わない方が良いのですが、少しだけ触れさせて頂きます。

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時は江戸時代末期、時計その物は存在してはいました。

当時の日本では今みたいに24時間で区切って時計の針が1~12時まで並んでいる物とは違いました。

解り易く説明すると、時間と言う物の観点がそもそも今と違い、下の図の様に、日の出を六とし、五、四、九、八、七、そして日の入りを六とし、五、四、九、八、七としていました。

現代の時計の文字盤で当てはめようにも、夏と冬で日の出ている長さが違いますので、針が正確に時間を指しません。


当時の和時計は季節によって変わってしまう時間を、2週間に一度、時計の振子の重りを調整したり、文字盤を交換したりしなければなりませんでした。
しかし、久重の万年時計は1度ゼンマイを巻けば1年間動き続け、しかも正確に時を刻むという画期的な物でした。

天球儀や曜日の表示など7つの機能を同時に動かすなど、凄いのはそれだけではないのですが、続きは動画で見ていただければ感激すること間違いなしです。(たぶん)

つづき part2~8
      ↓
http://www.youtube.com/watch?v=HP_4seRr0fw&feature=results_main&playnext=1&list=PLFF058141962EDE3B

全部で1時間半程あるので時間のある時にどうぞ。十分に価値はあると思います。

私はこの動画を初めて見た時は身震いし、何度も何度も唸りました。

日本の技術者の凄さ、素晴らしさをもっと多くの日本人に知って欲しいものです。

明けましておめでとうございます

新年早々、変化球の効いたブログになります。

新カテゴリーとして「古き日本を愛でる(めでる)会」てのを、たま~にバイク関連の記事に挟みますが、まぁ趣味程度の物ですので、テキトーに見てやって下さい。


一発目は皆さんご存じ、聖徳太子の巻

聖徳太子と言えば、遣隋使(中国へ今で言う留学生を送り、日本の政治、文化の発展を高めた)を送ったり、10人の言葉を同時に聞き分けた(これは本来は違う)って話が有名ですが、「十七条憲法」について面白い話があるので簡単にお話しようと思います。

今の政治に不満のある方には、見比べれば特に面白い話かと思います。

「憲法十七条」の第一条の冒頭に出てくる「和をもって貴し(とうとし)となす」という言葉があります。

日本人特有の、とにかくカドを立てないとか、空気を読むとか、長い物には巻かれろといった、仲良く平和にやりましょう。といった意味でとらえられているのが一般的だという。

しかしながら、実は聖徳太子が言いたかったのは(その後に続く文や条項を見れば)まったく逆の事が言いたかったと言っても良いぐらいなのです。

その真意とは

「人はどうしても派閥や党派などを作りやすい。
そうなると偏った、かたくなな見方にこだわって、他と対立を深める結果になる。
そのことを戒めているのだ。
それを避けて、人々が互いに和らぎ睦まじく話し合いができれば、そこで得た合意は、おのづから道理にかない、何でも成しとげられる」というのだ。

今で言えば、自民も、民主も、右派も、左派も、日も、米も関係無く、正味で話合えばおのずと正しい道へと進んで行くという事。

で、第十条から見ると

「人が自分の意見と違うからといって、怒ってはならない。人にはみな心があり、心があればそれぞれ正しいと思う考えがある。…自分は聖人ではなく、相手が愚人でもない。共に凡人なのである。それゆえ相手が怒ったら、自分を見つめ直して自分の過失を考え直しなさい」

要は「他人からは矛盾に見えても、人はだれもが自分の中の正論という考えの中で生きている」と言えます。自分が絶対に正しいと思いこむのはイケマセンよって事。

んで、十五条ではこう言っている。

「個人の利益に背いて、公共利益のために尽くすのが臣下たる者の勤めだ。
自分の事ばかり考えてばかりいては、必ず他に恨みの感情が生まれる。
恨みがあれば心からの協調ができない。協調ができなければ結局、私的な事情で公務の遂行を妨げることになる。…」

今で言えば、大臣を勝手に決めては(対立派に)降ろされて、私的に近い法案が出てはもめて、と結局肝心な事が3歩進んで2歩以上戻って結果、国の前進につながって無い事を指摘している。

最後の十七条では

「重大なことがらは独りで決定してはならない。
必ず多くの人々とともに議論すべきである。…(重大なことがらは)多くの人々と共に論じ、是非を検討してゆくならば、その結論は道理にかなうものになろう」

ドジョーも管も勝手に決めやがりますがね・・・


簡単にまとめたつもりでしたが、解りましたでしょうか?

なんせ、今の政治家は聖徳太子のリーダーシップを見習って、十七条憲法を勉強し直して下さいって思います。

ちなみに冠位十二階はそれまでの、血族や身分の上下で役人を決めず、その分野の能力に長けた物を役人にする身分制度ですが、これも聖徳太子の行った事でした。

ずごいね!

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